読めそうで読めない漢字 / 第51回
「杞憂に終わる」は喜んでいい?読み方と故事が教える意味
「杞憂」は「きゆう」と読みます。心配する必要のないことをあれこれ心配することです。「杞憂に終わった」なら、恐れていたことは起こらず、振り返れば余計な心配だったという意味になります。多くの場合、ほっとできる結果を表す言い方です。
空が落ちてくることを心配した故事
「杞」は古代中国の国の名、「憂」は心配することです。『列子』に、杞の国の人が、天地が崩れたら身を置く場所がなくなると心配し、食事も眠ることもできなくなったという話があります。「杞憂」は、この故事に由来する言葉です。
空が落ちてこないかという心配を、その人物自身は深刻に受け止めています。けれど、そこまで思いわずらう必要はない。そうした話から、取り越し苦労を意味する語として使われるようになりました。「杞」は木の種類の話をしているわけではなく、国名だと分かると熟語の成り立ちを捉えやすくなります。
現代の「杞憂」は、天候や宇宙についての心配に限りません。人間関係、催しの準備、物事の先行きなど、広い場面の取り越し苦労に使えます。
「杞憂に終わった」は心配が実現した意味ではない
「杞憂に終わる」は、心配した事態が起こらず、取り越し苦労で済むことです。 「雨で来場者が減ると心配したが、会場はにぎわい、杞憂に終わった」なら、悪い予想が外れています。
「転居後は疎遠になるかと思ったが、毎月会うようになり、杞憂だったと分かった」も自然です。反対に、予想どおり困ったことが起きたときは「懸念が現実になった」「心配が的中した」と書きます。「心配していた遅延が起き、杞憂に終わった」では、前半と後半がかみ合いません。
「杞憂であってほしい」は、まだ結果が分からない段階で使えます。「古い資料が捨てられていないか気になる。杞憂であってほしい」といえば、心配が不要なものであることを願っています。すでに問題なしと確認したという意味ではありません。
「杞憂」と「懸念」は評価の有無が違う
「懸念」は、不安に思うことや気掛かりを表します。その不安が妥当かどうかまでは決めません。「会場の混雑を懸念している」なら、混雑を予想して気に掛けているという話です。
これを「会場の混雑を杞憂している」とすると、不要な心配であるという判断が入り、通常の説明としては不自然になりやすくなります。「混雑の心配は杞憂だった」のように、心配を振り返って評価する形が使いやすいでしょう。
「取り越し苦労」は、起こるかどうか分からないことを先回りして心配しすぎる意味で、杞憂に近い言い方です。「心配しすぎかもしれない」と自分の不安を控えめに述べたいときにも使えます。難しい語を避けたければ「考えすぎだった」「心配する必要はなかった」と書くこともできます。
他人の心配を「杞憂」と決める前に
「それは杞憂ですよ」と言えば、安心させるつもりでも、「そんなことを心配する必要はない」と切り捨てた印象になる場合があります。相手が知っている事情を、こちらがまだ知らないこともあります。
たとえば「資料が消えてしまわないか」と相談されたとき、「杞憂です」とだけ答えるより、「別の場所にも保存してあるので、元の端末が故障しても残ります」と説明すれば、安心できる理由が分かります。その説明を受けた相手が「それなら杞憂でしたね」と言うのは自然です。
また、対策した結果として問題が起きなかった場合、最初の心配が無意味だったとは限りません。「事前に準備したおかげで、心配した混乱を避けられた」と書けば、備えの役割も伝わります。何も起こらなかったという結果と、心配する根拠がなかったという判断は、同じではありません。