「号泣」の本来の意味|涙の量ではなく「大声を上げて」泣くこと
号泣は、声の言葉です。涙がどれだけ流れたかは関係がありません。
「ラストシーンで静かに号泣しました」。映画の感想欄にこう書いた人の気持ちは、よく分かります。声を上げるわけにはいかない劇場の暗がりで、頬がずっと濡れていた。その体験を、持っている中でいちばん強い泣き方の言葉に乗せたかったのでしょう。ただ、言葉の中身に照らすと、静かな号泣というものは成り立ちません。
「号」の字と、「泣」の字
怒号、号令、号砲、号笛。「号」の付く言葉を並べると、どれも大きな声か音です。号泣もこの仲間で、人目をはばからず、大声を上げて泣くことを指します。迷子になった子どもが母親の姿を見つけたとたん、堰を切ったように泣きじゃくる、あの泣き方です。
ついでに「泣」の字も見ておくと、漢字の本家である中国の古い用法では、声を立てずに涙を流すのが「泣」、声を上げて泣くのが「哭」と区別されていました。「慟哭」の「哭」です。いまの日本語で「哭」の字を見るのはほとんど慟哭くらいですが、この区別で言えば、「泣」の字だけでは声の条件が足りないので、頭に「号」を付けて声を補っている、と読むこともできます。どちらから見ても、号泣の芯にあるのは声のほうです。
「激しく泣く」へ広がった理由
とはいえ、涙が止まらないほど激しく泣くことを号泣と呼ぶ使い方は、すっかり定着しています。泣き方の言葉の中でいちばん強いものを探すと「号泣」に行き着く、という事情が大きいのだと思います。「大泣き」では少し子どもっぽく、「涙する」では弱い。強さだけが欲しいときに、声という条件が置き去りにされたまま号泣が選ばれていきます。書いた本人に悪気はなく、手近にあった強い言葉をつかんだだけなのですが、読む側はその言葉から、声を上げて泣く人の姿を思い描いています。テレビの番組紹介やネットの見出しで、目を引く二文字として重宝されてきたことも、たぶん後押ししました。
強い言葉が気軽に使われるうちに、今度は言葉そのものが軽くなります。少し涙ぐんだだけでも「号泣した」と書かれるようになると、本当に声を放って泣いた場面を伝える言葉が、手元からなくなってしまう。何年か前、ある地方議員の記者会見が「号泣会見」と呼ばれて広く知られましたが、あれは声を上げてわめきながら泣いていたので、言葉の中身どおりの号泣でした。あの映像を思い浮かべると、「静かに号泣」がいかに別物かが分かります。
泣き方は、書き分けられる
日本語には泣き方の言葉が意外なほどそろっています。声を殺して泣くなら「むせび泣く」「すすり泣く」。しゃくり上げながらなら「泣きじゃくる」、悲しみに声を上げるなら「慟哭する」、立っていられないほどなら「泣き崩れる」。「大泣き」は話し言葉寄りで、声の有無をあまり問わないので、号泣ほどの重さを出したくないときにはかえって使いやすい言葉です。涙の量を言いたいだけなら「涙が止まらなかった」とそのまま書くのがいちばん正確で、読む人にもその情景のまま伝わります。
映画の感想なら、「エンドロールのあいだ、涙が止まらなかった」。これだけで強さは伝わります。号泣は、声を上げて泣いた日のために空けておく。そうしておけば、いつか本当にそういう日が来たとき、その二文字がそのままの重さで届きます。
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この記事は「間違えやすい日本語④」の一語です。